はつおい歯科室のべいちょうです。
私の言っている勉強会では「得るは捨つるにあり ~捨我得全~」という言葉が出てきます。
うん。そうだよな、と思っていたのです。が、間違っていたようです。
私はもともと「トレードオフ」という考え方が“好き”で。いわゆる二律背反というやつです。何かを得るためにはもう一方を捨てる必要がある、というような言葉です。優先度の高いものの為に犠牲にするとしたら何か。そんな事を考えるわけです。
この捨我得全の話を、私は今まで聞き流していて、要はトレードオフだよね、くらいに考えていました。それが違うんですね。
捨てるのは「我」でした。先日のセミナーで「おらがおらがの『我』を捨てて、おかげおかげの『下』で生きよ」といったお話を聞いたばかりですが、繋がってませんでしたね。
失敗も成功も、繰り返し繰り返し、積み重ねていくことが人生の糧になる。
が、苦境に陥ってにっちもさっちもいかなくなる事が有る。
そんな時には全てをかなぐり捨ててしまう。すると奇蹟が起こる。
「全て」は地位、名誉、財産、生命といった付加的な物と、恐れ、憂え、怒り、急ぎ等々の私情雑念と、分けて書かれています。
苦境に陥っている時こそ、「我」に縋り付きたくなるのではないかと思ってしまいます。
経営者の友人知人が多くいますが、経営者と言うのは我というか、拘りというか、多い・強い人が多数だと思います。そんな人だからこそ、窮地に陥ると「我」を強めていってしまう様に感じます。
一方で、上手くいっている人の話を伺うと、「おらがおらがの『我』を捨てて、おかげおかげの『下』で生きよ」ではないですが、苦しい時に人の言葉を素直に受け入れて、自分の「我」を捨ててしまってやってみると不思議とV字回復した、という話が珍しくありません。
経営では拘る事より、成功例をTTP(徹底的にパクる)だ!と言うのをよく聞きますね。
確かに、不器用な人や効率の悪い人は、数より質に拘ったり、真似するよりも独自の方法を模索したり、人から学ぶことより“自分なり”に拘ったり。そんな印象があります。
「数は質を凌駕する」これは有名な言葉ですね。質から拘る人が1を完成させるうちに量を生む人が100作ると、経験値は100倍の差がつく。そしてそれは埋まらずに広がり続ける。するといつの間にか、質に拘る1を超えた質を持つ100が生まれる。と、そんなお話です。
この質への“拘り”も言ってしまえば「我」ですね。
私の友人の歯科医師に大変“不器用”な人がいます。彼は学生の頃の実習で「私は不器用だから、本番のつもりでグローブをはめて、しっかりとやりたい」そう言っていました。一方で私は、「人より多くやれば特じゃん!」とそんな考えで、1つ提出の課題で、周りが完成したからと自由に過ごしている時も、何個も何個も作り続けたり、上手くいかない人に教えたり、先生が教えているのを繰り返し見たり聞いたり、いわゆる“くそ真面目”に過ごしていました。私は卒業後の臨床研修でも、同期や講師から笑われながら、朝も昼も夜も練習し続けていました。結果として私は改行で来たのだと思います。一方で、さっき書いた「大変に不器用な人」は診療する自信がないと歯科医師としての仕事はしていません。
この“不器用”が非常にやっかいな事で。不器用を自認する人ほど、難しい状態で始めようとするように感じます。「本番を踏まえて自分に制限を設けて、負荷をかけて、なぜなら私は不器用だから…。」と。不器用なのはその考え方(拘り)だと、思うのですが、そういう人には拘り(我)があって、あるいは「あなたには分からない」という気持ちなのかもしれません。
そんな事を思い返すと、我を捨てる事の大切さが分かってくる気がします。
こういう時に、自分の「我」を説明できない所が自分の「我」なのかな。そんな事を書いていて思います。自分の中での「我」が思い浮かべられないのは、それほど身に沁みついていて、客観視が出来ないという事だったり、自分をよく見せたいという気持ちだったり、色んな事が絡みついてそうなっているんでしょう。と、言い訳と自己正当化とをして終わりたいと思います。
結局、我を捨てられない自分に気が付けただけ前進と考えさせてください。(笑)