はつおい歯科室べいちょうです。
私は子どもの頃によく父から「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」と言われていました。私はいまもこれには反対で。特に現代の人に、歴史から学ぶような余裕は無い様に感じます。私達が1日で触れる情報量は、江戸時代の1年分に、平安時代の一生分に相当するそうです。
真偽のほどは分かりませんが、そんな状況で歴史に学ぶとして、どれだけの情報をインプットすれば良いのでしょう。しかもネットで得られる情報はそれこそ真偽不明なものばかり。書籍でさえ明らかな嘘や根拠薄弱な情報で溢れています。そんな時に、歴史から学ぶ様な余裕は、無いように感じます。
もう一つ、賢者である必要があるのか?という事です。父は私を「愚か者」と言って怒りましたが、自分が賢者であると思っていたい、というのは誰しもあるとして、実際のところ私は愚者だと思います。ですが、それが悪い事だとは思えません。
成功する為に必要な物はなにか。そんな話を聞いた時に「賢者」という答えは聞いた事がありません。そして残念ながら「頭がいい」や「良い大学」も聞いた事がありません。「行動力」という答えが多いのではないでしょうか。
頭が良い事や良い大学を出ている事は、チャンスが人より多くなる程度で、それだけです。行動力がなければチャンスがあろうがなかろうが何も起きません。加えて「素直さ」もよく聞こえる答えだと思います。
人が親切心でかけてくれた言葉を自分の世界で判断すればたいてい「否」という答えが出てきます。だって、だから人がそうやって言ってくれたんですもの。特にSNSは勝手に自分の世界を狭めてくれますから、自分にとって都合のいい情報だけを抽出して与えてくれます。身近な親切な人からの言葉より、大変に耳障りだけが良い情報が私達を囲ってくれるんです。自分に都合の悪い親切な言葉や先輩からの助言なんて“有難迷惑”なんですね。そんな事より信じていたい事がある!って感じです。
判断軸は自分で持っていたい。と思うのです。誰かが言っていたとか何かに書いてあったとかではなく。再現性のない奇跡でもなく。天候のせいでもないし、生まれの性でもないし、強いて言うなら自分のせい。
「正解に導く」という言葉がありますね。正解という言葉は解釈の領域です。自分が正解と思えば正解だし、そうでないと思うならそうです。それはやっぱり自分で決めるべき事で、何かに決められる類のものでないはずです。ただ、自分のせいじゃない方が安心しますよね。その方が耳障りがいいんです。
歴史に学びつつ経験にも学ぶ必要がありますね。「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」は本来はもっと中性的な意味というか、「賢者は人の意見を聞き入れる」という様な意味だったかと思いますが、幼かった私には何とも感じの悪い言葉だといつも思っていた記憶があります(笑) そんな先人の言葉を聞き入れられない私は、やっぱり愚者かもしれません。