はつおい歯科室 べいちょうです。
はつおい歯科室は、次の3月で満3歳になります。
開院当初は慣れないことばかりで、ただその場その時を必死にしのぐ毎日でした。
けれど、去年あたりから少しずつ「その先」を考えられるようになってきました。
診療台を増やしたり、機器を増やしたり。
この場所にこれを置いて、あの部屋をこう使って……と、次々に妄想が膨らんでいきます。
勤務医の頃も多少は考えていたつもりでしたが、それでも「今日の夕方のこと」さえ十分に考えきれなかった。
開業してからも同じで、日々に追われてなかなか未来が見えない時期がありました。
それがいつの間にか忙しさを選び取り、走り続ける中で、ふと気づけば“妄想”がどんどん育っていたわけです。
忙しさは希望を消すのか?
忙しさは希望を忘れさせる。
そんな気がしながらも、実際にはそうでもないのかもしれません。
忙しさそのものよりも、
「自由度」「裁量権」「責任の大きさ」
の方が、未来の見え方を左右するのだと思うのです。
一方で、私から見ると“自由しかないじゃないか”と思える人でも、発想豊かであるとは限りません。
どこかで聞いたような「自由節」を語るばかりで、むしろ自由に拘束されているようにも見えてしまう。
裁量権があるはずなのに、まるで無いかのように振る舞い、
責任が伴うはずなのに、権利だけをこぼしていく。
そういう姿を見ると、なんだか“貧しい自由”だなと感じてしまうのです。
私自身も「イケナイ」に囚われている
ここは私自身も、とても不自由なところがあります。
「囚われてはイケナイ」という囚われ。
“普通ではイケナイ”“柔軟でなければイケナイ”“変化しなくてはイケナイ”“学ばなくてはイケナイ”…
そんな強迫めいた感覚で自分を縛って生きてきたところがあるのです。
放っておけば怠けてしまう自分を知っているので、予定を埋めて自分を管理しているのかもしれません。
結局、私も「イケナイ」に囚われているわけです。
その「イケナイ」が、今は未来への原動力
そんな私の最近の「イケナイ」は、
“先を考えずにはいられない” ということ。
5年後にこれをして、10年後にあれをして、
死ぬ年齢までスケジュールを立てている始末です(笑)
でも、それが楽しい。
未来を考えるためには、
今何をすべきか、今何を優先すべきかを考える必要がある。
その繰り返しの中で、自分の中に“軸”のようなものが少しずつ育っていく。
すると、ものの見え方が変わり、
必要だと思っていたものが不要になり、
逆に新しく必要なものが浮かび上がる。
その変化までも楽しいのです。
では、なぜ「先を考えられるようになったのか」
それが何だったのか。
もしその“きっかけ”がわかれば、もっと世界が広がる気がしています。
忙しさか、責任か、自分の成長か。
あるいは、3年間ここではつおい歯科室を続けてきたという、
静かだけれど確かな「積み重ね」なのかもしれません。
いずれにしても今、
未来を考えることそのものが、とても楽しい。
その事実だけは、間違いないように思います。


