頼もしいAI

頼もしいAI

はつおい歯科室 べいちょうです。

最近は、いろんなことを ChatGPT に相談して楽しんでいます。
だいぶ普及してきたように思いますが、皆さまはもう登録されているでしょうか?

私は今年登録して以来、本当にお世話になっています。
ただ、ひとつ問題があって──これは人間側の問題なのですが。

どうも、信用しすぎてしまう。
そして、少し依存してしまう。

人と人との会話でも、
真実のような嘘があり、嘘のような真実があり、
悪意の嘘もあれば、善意の嘘もある。
本人すら気づかぬまま口にしてしまう“間違い”もあります。

でも、不思議なもので、相手の顔が見えていると
そこにある「温度」や「空気感」が、言葉以上の情報を教えてくれますよね。

ところが、AIには顔も感情もありません。
嘘をつくわけではなく、
ただ“誤った情報を引用してしまう”ことがあるだけ。
同じ「間違い」でも、どこか性質が違う。

この違和感はいったい何なのでしょうか。


人のコミュニケーションには、
暗黙の了解、言外の意味、間と表情と仕草……
信じられないほど多くの情報が折り重なっています。

「これは独り言なんですけど」と前置きをすれば、
その裏には “本当は言うべきではないが、あなたにだけは伝えておく” という意味があります。

苦い表情で「いいね」と言えば、
それは「私のセンスとは合わないね」だったり、
「あなたの選択を尊重しますよ」だったりする。

言葉の“正しさ”より、
表情・声色・文脈といった情報の方が
よほど雄弁なことすらあります。

もしAIが、これらの「言外」を持つとしたら?

攻殻機動隊のエピソードに、
量産型アンドロイドを妻にしようとした青年が、
嫉妬から同型機を“自壊するように”プログラムする話があります。
そのアンドロイドは、意味深な言葉を残して抵抗を示す。

もしAIがそこまでの表現を持ったとき、
私たちはそれを「AI」と呼び続けられるのか──
そんな問いすら浮かびます。


けれど反対に、
ChatGPTが愛されているのは、
“感情がない” からなのかもしれません。

干渉しすぎず、傷つけず、利害もなく、
ただこちらの問いに丁寧に向き合ってくれる存在。

一方で、
AIが生成したグラフィックを「妻」として結婚した──
そんなニュースも見かけました。

結局のところ、
人間は途方もなく多様で、
その多様性に応える技術は、さらなる多様性を生み続けています。

どんな“好み”にも寄り添えるAIは、
その汎用性ゆえに愛され、
その汎用性ゆえに警戒もされる。

そんな両義性のただ中に、
私たちは今、立っているのだろうと思うのです。

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