「恩着せがましい」は大切かもしれません

「恩着せがましい」は大切かもしれません

はつおい歯科室 べいちょうです。

講習会や勉強会に参加すると、
お弁当とお茶が用意されていることがあります。

出す側は、ごく自然に用意していて、
受け取る側も、ごく自然に受け取っています。

そこに悪意はありません。
むしろ、とても有難いことのはずです。

それでも私は、時々、少しだけ、立ち止まってしまいます。


■ 「当然」になった瞬間に、感謝は姿を消す?

お弁当とお茶は、
誰かの時間とお金と手間の上に成り立っています。

準備をする人がいて
注文をして
受け取り
配り
片付ける人がいる

それらを全部含めて「用意されている」のですが、
一度それが“いつも通り”になると、
不思議と私たちはそれを 当然の風景 として受け取ってしまいます。

“当然”になると、
感謝は言葉にされなくなり、
やがて、存在しないもののように扱われてしまう・・・。

これは少し怖いことだと思うのです。


■ 「恩着せがましい」は、悪いことなのか

「恩着せがましい」という言葉には、あまり良い印象がありません。

見返りを求めているように見えたり、押しつけがましく感じたり。

でも、本当にそれだけでしょうか。

もしかすると「恩着せがましい」という行為は、
“これは誰かの好意で成り立っていますよ”
と、そっと示すサインなのかもしれません。

「感謝してほしい」ではなく
「当たり前だと思わないでほしい」というメッセージ。


■ 感謝は、放っておくと消えてしまう

感謝は、不思議なもので、
意識しなければすぐに薄れてしまいます。

言葉にしなければ消え、
意識しなければ習慣になり、
習慣になれば“背景”になります。

だからこそ、ときどき
少しだけ「恩着せがましい」くらいで、立ち止まらせる必要があるのではないでしょうか。

「これは誰かが用意してくれたものです」
「誰かの好意が、ここにあります」

そう思い出すための、「違和感」として。


■ 医院でも、日常でも

これは講習会の話に限りません。

医院の中でも、誰かの気配りや準備や我慢が
知らないうちに“当たり前”になっていることがあります。

当たり前になった瞬間、それはもう評価も感謝もされなくなります。

それは、あまりにも寂しい。


■ 「ありがとう」が残る環境でありたい

恩を売る必要はありません。でも、恩を隠す必要もないかもしれません。

少しだけ「恩着せがましい」くらいが
人と人との関係を、丁寧に保ってくれるのかもしれません。

感謝がちゃんと残る環境。
「有難い」と思える感性が鈍らない環境。

そんな場所でありたいな、と思います。


・・・番外編・・・

あまりにも恵まれていて、私たちは「ありがたい」に気が付けなくなっている様な悲しさがあります。人の努力や好意が踏みにじられるような場面、珍しくない様に思います。悲しいなと、思います。
でも自分も、気が付けていない時にはその様にしているに違いないのです。だって、気が付いていないのだから、「ありがたい」ではなくて「無」ですよね。「当たり前」と思うんです。
朝日がやってきて、目が覚めて、「おはよう」と言える。朝ごはんが食べられて、仕事ができる。帰る家があって、ふとんやベッドまである。本当はすごく恵まれている事です。
私、家出をしてホームレスだったことが実はありまして。ある意味貴重な体験故にそのありがたさは、特に寒い冬、身に沁みます。そんな事を思うと、安心できる場所があるって信じられないくらい素敵な事です。そんな、安心できる場所に、はつおい歯科室も成れる様に。と、思う訳です。

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