洗脳と偏見と、それから。

洗脳と偏見と、それから。

はつおい歯科室 べいちょうです。

私は凄く恐れている事があって。
それが洗脳と偏見です。

事実を捻じ曲げる力を、私たちの脳は持っています。
その一つが洗脳です。

洗脳なんて受けたことがないと思います。が、みんな受けている、と私は思います。
家々に「我が家のルール」が、それぞれにありますよね。暗黙のうちに決められていたり、何らかの会議が行われて行使されたり。ちなみに我が家では、子どもにお祭りの時に特別ボーナスを支給して、残したお金には私が利息を支払うルールがあります(笑)厳密に言えば、子どもの為のお小遣い表があって、毎月のお小遣いやお年玉などを入力していきます。年末には彼のお財布の残金も足して、総額に対して1%の利息を上乗せするようになっています。彼がもう少し学年が上がって、友達とお小遣いの話になった時、彼も友達もびっくりするかと思います。3歳の頃に始めたシステムで全部記録がありますし、もしこのまま使わなければ◯年後には◯円になっている!!という事が分かります。逆に言えば、残った分は使って構わないので、残金をゼロにするまで使っても私は文句を言えないわけです。しかし、彼は彼なりに考えて買いたいものは買い、そうでないものは我慢したりするわけです。もう少し大きくなってきたら、利息の利率やお小遣い上げの交渉もある事でしょう。そんな事を考えてワクワクしている変態な父親で申し訳ないですが、それが我が家のルール。長くなりました…。
これはある種の洗脳です。「お金や時間は有限である」「使い方によって後になって返ってくる」「今の誘惑と将来の誘惑はトレードオフである」そんなマインドコントロールを彼は受けている訳です。
彼もやりくりが上手になってきて、「これは買う」とか「あれはそれほどでもない」とかと言っています。私たちはそれが厳密になりすぎないように、「これはお母さんからのプレゼント」と言って一緒に食べたりします。この間はお祭りで、彼はフランクフルトを3本買いました。妻が後から食べたくなったのですが列が長く、彼はフランクフルトを1本残していました。彼は「あげる!」と言ったのですが、それでは彼のお金が減ってしまうので、妻との交渉が始まります。「あの列に並ばずに買えるから価値が上がるけど、時間が経って冷えているという価値が下がっている部分もある。お母さんに幾らで売る?」と、小学1年生に何をやっているんだって感じですが。彼は結局「100円」と結論を出しました。優しいのか、商売下手なのか、両方なのか。虐待とは言われないでしょうが、「かわいそう」という人は中にはいそうです。今時の世の中はそんな人も相手にしないといけないので、テレビが衰退する訳です。

私はこれを良い洗脳と思っています。私は商売ごとは苦手で。彼に迷惑をかける心配があるわけで。今から出来ることは、お金の大切さ、使う・使わないを決定していく術を身につけてもらう事です。今後のキャッシュレス化でお金の価値はどんどん下がって金額はどんどん上がるでしょうから、使わない事のメリット、使う事で得られる将来性を常に秤に掛けなくてはいけません。彼が30代になって、変な親父だったと苦笑してくれるくらいがちょうどいいと思うのですが。

一方、悪い洗脳もする事ができます。
「仕事行きたくない」言ったことはないでしょうか。「学校行きたくない」子どもは言うようになります。
子どもを「お前」と言う家庭もありますね。子どもは大切な人に「お前」と言うようになります。
夫や妻を蔑む言動はないでしょうか。子どもは人を蔑む人になります。

洗脳は特別なもの。と言う思い込み、偏見があるのだと思います。
偏見、と言うのは知らず知らずに身についた思い込みで。
脳の錯覚だったりもします。私自身不思議に思う事でも、何度も繰り返し繰り返し見ていると正しいものと思い込んでしまう事があります。他の人が嘲笑しているような内容でも、明らかに筋の通らない主張でも、何故だか熱狂的に支援者がいる事があります。一つの色、一つの形でも、人によって違うものと錯覚する事があります。私たちの脳は、世界を正しく認識する能力よりも、都合の良いものは何か、を処理する能力に長けています。都合の悪いものは排除してしまうんです。

私たちの脳は超高次元の処理をするために、ほとんどの情報を捨てる能力を持っていて、しかもそれを無意識で排除して特定の情報だけを取り込む様にできている様です。レッテル貼りはこれをよく活用した方法で、名前をつけたり、カテゴライズすることで「理解した」と脳を安心させる道具です。私が流行語や略語が苦手なのは、この恐怖感からくるのかもしれません。本当は理解できないものを「理解した」と処理する恐怖というか。

今朝、YouTubeを見ていたらひろゆきさんが「ハラスメントは良くない言葉だと思っている」と発信していました。私も同意で。ハラスメントは「嫌な思いをした」がハラスメントになるので、何でも言える事で。何が嫌なのか、どうしてなのか、どうしたら良いのか、そんな事を言語化する事を省いて「ハラ」と括ることで、被害・加害構造を簡略化させる道具なのかもしれません。けど、その嫌な思いをした原因は、本来は自分にあるかも知れないとか、本当は別のところに根本があるのかも知れないとか、そういった思考を全て捨て去って「ハラ」の二文字に括る恐ろしさ、私は凄く怖いのです。

日常が埋められていくと、拾う情報が狭まっていってどんどん洗脳されていきます。私の勤務医時代、思い返すと“洗脳”されていた様に思います。色々な常識が、常識外でした。もの凄くブラックだったし、無休労働当たり前、休日出勤が無休で交通費も出ないのは当たり前、休みの日は職場で会議が当たり前。。我ながらよく働いたと思います。最終的に、書けない事がたくさん起こりました。それで辞めて、あ、おかしかったんだ。と気がついた訳で。でも当時からすると、今の私は超非常識な状態で働いていて、当時の5倍くらい休日がある気がします笑 実際には、当時より仕事をしている日は多いはずなのですが、この違いは何なのでしょう。“洗脳”されていたのも“偏見”なのでは?と現状を疑ったり、当時の事をふと思い出したり。これを人は“フラッシュバック”と呼んだりするかも知れませんが、それも“レッテル貼り”とも思えるし、当時が間違っていた、と断言する事が出来ることも出来ないこともなく、と、こんな事を考えるとどんどん頭がパニックになる訳で。

ですが、常識を疑う事はとても大切な事だと思うので、皆さんの“当然”も疑ってみてはいかがでしょうか。なんでそうしているのか、説明できないことが日常にはたくさんあって、それを考えない人の珍妙さに、私は苦しくなる事が毎日です。

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