伝統は好き 因習は嫌い

伝統は好き 因習は嫌い

2025年10月1日

はつおい歯科室 べいちょうです。

私は伝統や文化というのは好きな方だと思います。
神社やお寺が好きとかお墓参りが好きとかお祭りが好きとか、そんなレベルですけどね。

しかし因習と言うものは嫌いです。
「弊害を生むしきたり」を因習と呼びます。

昔は部活動中に水を飲むことは禁止とされていたそうですね。
今よりも命が軽かったのだと思っていますが。

「24時間働けますか?」というCMが1989年には流れていたそうです。
長時間労働が労働者のプライドだったのかもしれません。

科学的に言えば、水を飲まないと能力が落ちてしまいます。水分補給は集中力の維持に欠かせず、どんな時でも必要になります。邪推をすれば、「下手な事を考えずに言われた事だけやっていろ!」という環境であれば「水なんて飲むんじゃねぇ!」というのは効率的なのかもしれません。科学的に言えば、睡眠不足では泥酔時と同じ程度の判断能力しかないそうです。やっぱり「四の五の言わずに働け!」にはもってこいだったのかもしれません。

私の出身大学には毎年意味不明なレポートを課題に出す講座があります。教科書の数十ページを丸写ししなくてはならず、誤字脱字は許されません。レポートはボールペンで書きます(これは常識と言って差し支えないと思います)が、修正テープや修正液の使用は禁止されていました。A4レポート用紙40枚前後にびっしり文字を書いて一字一句間違えてはいけない。というレポートです。みんなが徹夜で取り組みます。レポート内容は全く頭に入っていませんが、その内容をそのレポート以外で使ったことはありません。卒業して何年もたつ今になっても、使っていません。唯一使っているのは、検査数値の基準値ですが、基準値は実はよく変わる上に、検査をした会社で違ったりしますから、記憶する必要すらありません。検査の数値が意味するところは知っておく必要のある知識ですが、それは生理学で習う内容で、その講座とは関係がありませんし、レポートの内容にそのような情報はありませんでした。卒業した後何年たっても恨み節を並べられる程度に苦痛でした。内容も頭に残らず、情報としても不要で、徹夜でやるし、中には他の授業中も頑張って書いている友人もいました。旧時代の悪しき伝統、因習そのものです。

生産ラインを守る仕事であれば、「考えるな!」「言われた事だけやれ!」も必要な事があるかもしれません。現場で考えれば非効率な事も、俯瞰してラインを見ると効率的な場合もあります。ただの愚痴を真に受けては仕事になりません。

ですが、その人はそのラインの守り人で一生を終えるわけではありません。その時その瞬間、契約上自分を“売って”お金に換えているだけで、数分後には全く別の仕事をしていてもおかしくないわけで。考えるなと言われようと、考えられない様な環境であろうと、考え続けた人だけが別の仕事ができて、別の仕事を選べるわけです。

また話がそれてしまいました。悪い癖ですね。

私たちの周りには因習と呼んで差し支えない事がたくさんあります。それぞれの会社には伝統や文化というものがそれぞれにあるものですが、それも因習の類であることがたくさんあると思います。

では、はつおい歯科室では、と考えているせいで、はつおい歯科室のやり方はコロコロ変わっています。患者さん毎に使う「基本セット」と呼んでいる、ミラーやピンセットが入っているものも、コロコロ変えています。使っている物もコロコロ変わっているし、物を置く場所やしまうための棚も変わっています。スタッフは大変です。働いている側からすれば、多少やりにくかろうと、弊害があろうと、変わらない事が平穏を維持するのに大切なのだと思います。考えなくて済むというのはその場その時にとっては大切な事です。ただ、それが因習なんですね。

そういう職場に良く起こる事が、因習の為に大切な事を犠牲にする事です。古来から世界中で、無垢の少年少女を自然に捧げる“伝統と文化”を持っている集団が少なからずいます。大切な命も、因習の前では必要な犠牲です。

歯科医院では、因習を守るためにスタッフが捧げられたり、患者さんの安全が捧げられたりする訳です。しかしその因習と言うのも大したものではなくて、今までそうしてきたから、と考えを放棄する事を選んでいるだけな事が多いと思います。政府の賃金アップには賛成しますが、物価の上昇や販売価格の上昇は受け入れがたいですもんね。自分事ではないのです。あらゆる事柄が。それゆえに、変えたり決裁権を持たせられず、「考えるな!」に至る事も理解できます。私も何度も思います…「そんな風なら禁止しよう…」という様な事が。しかし、結局原因は考えていない事なので、何も改善せずに同じような事が同じように永遠と繰り返されるわけです。やっぱり自分事ではないのです。

私は入社前研修でいつも話すことがあって。道端にうんこが落ちているのをいちいち片付ける人はいないと思います。では、自分の布団やベッドにうんこが落ちていたら、放っておくでしょうか。絶対に片付けると思います。それは自分事だから。一方、他人事だから、道端のうんこは気にも留めないで避けて歩くことができます。では、これが職場で起きたら、どうなるでしょう。職場にうんこが落ちていても気にも留めない職場で、働きたいでしょうか。仕事を自分事で考えられないという事は、職場の環境を著しく悪化させます。そして仕事を辞める時にこう言います「環境が悪かった」「人間関係が悪かった」「上司が悪かった」。本当は自分が良くする事ができたかもしれないのに。

原因は、うんこを放置できる因習なのに。それを伝統と履き違えて、不文律化の様な、聖域か何かの様に扱う因習が原因なのに。

私は伝統が好きだし、守るべきものだと思います。日本人を日本人たらしめるナニカが、伝統にはあると思います。それぞれに守るべき伝統というものはあるとも思いますし。ただ、それが弊害を生むものであれば、その犠牲を払うべきなのか、価値を問いたいというところで。

「うんこ」とこんなにブログに書いて良いものなのか、どうなのか。今は全員が全員潔癖症ですからね。「うんち」ならいいですか?と煽りたくなる心持もありますが。

世の中の人は伝統を軽んじて因習を重んじる傾向があるように感じます。それが本当に自分の為になるのであれば、因習とは呼べないはずですが。

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