認知の恐怖

認知の恐怖

はつおい歯科室べいちょうです。

私は小さい頃から悩んでいた事がたくさんありまして。
幼稚園の頃だと思いますが「自分だけ見えている世界が違ったらどうしよう」とか「自分だけがこの世界に存在するのだとしたらどうしよう」とか、そんな悩みがありました。今は「全員見えている世界は違うはず」と思っていますが。

認知というのは怖いですね。同じ世界を似たような脳で処理しているはずなのに、色や形、大きさ、あらゆるものを歪ませたり、創造したり、消去したり、することが出来ます。それを考えると、小さい頃の私の認知は完全に正常だったと言えるかもしれません。

認知的不協和という言葉が一般的になった様に思いますが、ご存知でしょうか。認識と認知の矛盾とでもいうのでしょうか。私の個人的な考えとしては、自分に都合の悪い現実を認知した時のギャップをどう感じてどう埋めるか、という事だと思っていますが、実際はどうなのでしょうか。

「みんな違ってみんな良い」とは言いながら、一方でカエル化現象という言葉もありますね。一番驚いたのは「彼が財布を持っていたのでカエル化して別れた」と聞いた時でした。女性で、21歳だったかと思いますが。私の様な人が「カエル化した」なんて言葉を聞くとですね、「私は未熟で頭が固いです!」みたいに聞こえるんですね。

“老害”という言葉がありますね。これは頭が固いとか融通が利かないとかに起因している一方で、若者からの「思い通りにならない人」的なニュアンスだと思うんですが、どうなのでしょう。また認知に戻るのですが、若者と“老害”と言われる人とは見えている世界が違うと思うんです。

例えば「政府が1億円の支出を決めた」というニュースに対して「それなら若者を支援しろ!」とかって反応があると思いますが、1億円って「国民一人当たり1円ずつ出してね。」って感じですよね。日本人は1億2千万人いるはずですから。そんな事を考えると、日本人は1円を出し惜しみするほど貧しくなったか…という訳ではなさそうで。経済的な貧困とは別で、知識的貧困というか社会的貧困というか、発想の貧困を感じてしまいますね。

話がズレましたが、“老害”と言われる人がどういう背景でどういう思想で“害”なのかを知る事で初めて克服というか世代交代というか、可能性が見えてくると思うんです。ただ、人は分からないものを分類する事で脳内で「理解した」と処理するみたいなんですね。若者が「おじさん」「おばさん」「じじい」「ばばあ」と誰彼構わず言うのも、「私は無知で未熟ございます!」と言っている状態とも言えるね。なんて事を私は思ってしまうのです。

ただ、どこの誰でも同じ世界を見ていて、それぞれの脳内でそれを再構築して、それを認知している訳ですから、正しくない訳ではない。という事を忘れてはいけないな、と思います。「お若いのね」とか「お疲れかしら」とか「そんなのも有りかしら」という風に受け止める力も必要なのだなと、思います。

自分の頭の中の取っ散らかった世界がこうして文章にするとまとまった雰囲気がありますが、読み返してみるとごちゃごちゃしているのがよく分かる様になりました(笑)
大学の教授から「君は哲学者か宗教学者が向いているかもしれない。それか教祖の方が儲かるんじゃないか?」と真剣な顔で言われた事がありますが、そういった人はもっと頭がよくて筋の通ったお話が出来ないとなりませんね。いつか機を見つけて心理学や哲学、宗教学を学びたいと、実はずっと思っていますが、もう10年以上現実には出来ていませんねぇ。

ちなみにですが “〇〇” というダブルクォーテーションの使い方ですが、「他者からの引用」という意味と併せて、「私はそうは思いませんけどね」という時に使う事があります。それを知るだけでも認知は大きく変化して、読み返してみると違って読めるかもしれません。
コミュニケーションというのは、難しいですね。

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