万事、塞翁が馬

万事、塞翁が馬

はつおい歯科室 べいちょうです。

塞翁が馬、ご存じでしょうか。
砦(要塞)の翁の馬に由来する故事成語です。

国境の村の老人(塞翁)の馬が逃げる。人々が不幸を嘆くと、老人は「幸か不幸か分からん」と言う。やがて馬は立派な馬を連れて戻り、人々が喜ぶと、老人はまた「まだ分からん」。その後、息子がその馬から落ちて脚を折り、人々が気の毒がると、老人は「まだ分からん」。やがて戦が起こり、若者が徴兵され多くが命を落とす中、息子は脚のけがで徴兵を免れた。

幸・不幸は予測できるものではないから一喜一憂する事はない。という故事成語ですね。
物事はその時の状況だけでは判断がつかないこともある。ひと時の幸福が不幸につながる事も、ひと時の不幸が幸福につながっている事もあります。人は解釈によって人生を左右することができます。よく話されるレンガ職人の話をご存じでしょうか。

ある旅人が建設現場を通りかかり、順に3人のレンガ職人へ声をかける。
1人目は疲れた様子で「見れば分かる、レンガ積みだ」と答える。
2人目は「期限に間に合わせるため、ここの壁を仕上げている」と、仕事の役割を説明する。
3人目は目を輝かせ「何百年も人々が祈り、集い、幸せになる大聖堂を建てている」と語る。
同じ作業でも捉え方—作業・仕事・使命—が違えば、働く意味や誇り、成果まで変わることに気づく。

というお話です。この3人は、一人3役も容易です。その時々のいわゆる“モチベーション”でコロコロと一人3役をこなす人も少なくないのではないでしょうか。中には「自分は不幸である」という呪いの中でレンガを積む人もいるし、または「自分は幸せだ」と思い込んでレンガを積む人もいるでしょう。この話は「レンガを積む」話ですが、現実には「レンガを崩す」人もいるでしょう。過去の資産で食い繋ぐ人です。

何がよろしいか、ではなくて。「何を選ぶのか」自分だけが選択肢を持っている。という事です。
「統制の所在」という言葉があります。自分の持ち主は誰か、という事で。

幸・不幸は自分で選ぶものなのだと思います。
そのひと時の状況で一喜一憂する事も選べるし、それに左右されない事も選べる。
不幸な人生も選べるし、幸福な人生も選べる。
「選べない」という呪いをかける事もできる。

自分の人生を自分以外に任せる簡単な方法があります。
言い訳の癖です。「◯◯だったから」「◯◯だから」と心に浮かんだ時点で、それは言い訳の癖だと思っていて、私はこれをすごく嫌悪していて。
「△△さんが『◯◯だったから』」「その時『◯◯だったから』」「もしかしたら『◯◯だから』」「私は『◯◯だから』」
言い訳はストレスから逃れる最適解です。「自分に責任はない」と言い切る手段です。
塞翁はどんな気持ちで「禍か福か分からぬ」と答えたのでしょう。
レンガ職人の中で、自分の人生を生きているのは誰でしょう。

斜に構えて捻くれた意見は何でも言えます。素直に考えることもできます。
人は自由なはずなのに、がんじがらめの方が生きやすいのかも知れません。
自由でない方が選択をしなくて済みます。選択をしなければ、失敗をしなくて済みます。失敗をしなければ、責任を負わなくて済みます。責任を負わなければ、ストレスを回避できます。これは永遠とループして成功体験として刷り込まれていきます。そのスパイラルは、私から見ると下へ下へと加速度的に落ちていく様に見えますが、そのひと時のストレスだけは回避できます。

ストレスは「禍か福か分からぬ」です。ストレスと考える事がストレスです。
ただ、ストレスは成長には必須です。

外には草木が生えています。雨の日も、酷暑も、極寒も、ただそこで受け入れて何年も何年もかけて成長します。もし雨が降らなければ、誰かから水やりをしてもらわなくてはいけません。もし日当たりがなければ、植え替えてもらう必要があるかも知れません。寒さを知らなければ、美味しい実をつけられず、子孫は育まれません。
今時、何でも「ストレス!」と声高に喧伝する事が正しいかの様な錯覚を受けますが、そのひと時の解消ないし回避は、善い結果をもたらすでしょうか。

「禍か福か分からぬ」

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