はつおい歯科室べいちょうです。
ふと思い出したのですが、私はずーっと国語の成績が悪かったんです。
中学に上がって現代文に変わっても、ずーっと悪かったです。
いっつも62点~66点くらいで「安定しているのはいいんだけど、もうちょっと上で安定してほしいな」と優しい先生からきつめの口調で言われていた事を覚えています。
昔から本を読むのは好きだったし、当時も本を読むのは好きでした。文字を書くのも好きでした。人よりも言葉には気を付けている、そんなつもりで生きていたのですが、ずーっと点数が悪かったです。そして先生と父親から叱られてばかりでした。
そんな私ですけど、こうしてブログを書いたり文字を書いたりする事は今でも好きです。しかし、当時の経験のせいにするのもなんですが、「どうせ分かってもらえない」とか「自分は他人と感覚が違う」とか「人によって感覚にズレが合って、言葉の裏にある感覚は何だろう」とか、疑心暗鬼というのか、言葉(他人)は信用が出来ないというか、そんな感覚を持つようになりました。
父は気に入らないと殴る蹴るをしてくださる方でしたから、家では言葉を発さないようにしていたのもあるかもしれませんね。言葉を発する怖さが今でもあります。そうすると、人とのコミュニケーションは常に聞き役だったり、質問されても答えがしどろもどろだったり、端的過ぎて会話にならなかったりが今でもあります。仕事では会話もできるけど、自分に戻ると言葉が出てきません。
と、そんな事を書くと大層悩んでいるのかと読まれるかもしれないのですが、私は悩まない様にして、他人事として捉えるようにしています。
ところで、大学の授業でこんな質問がありました。グラフを指した教授が「多重人格者はこの年に大幅に増加しました。原因はなんでしょう。」駒澤大学で、文化人類学の授業だったかと記憶していますが、定かではありません。答えは何かというと「雑誌に掲載されたから」でした。
近年、〇〇症候群や〇〇依存症や〇〇障害など、色んな“発見”があり患者が“急増”しているそうです。私も何かに分類できるのでしょう。それで安心する人もいるのでしょうが、そこに自分を当てはめていく人がいると聞きます。「あぁ確かにそうだ」と共感してしまうのです。占いと同じで、殆どの人に当てはまる事がたくさん書いてあります。血液型を気にするのは日本人くらい、と言いますね。けど、当たっていると思う。と思うのですが、血液型を信じて来た文化が日本人を4種類、Rhを入れて8種類に分類していっている、と言うのが定説だそうです。
人は分からないものを分類する事で、分かったつもりになるそうです。あの人は〇型だからとか、あの人はZ世代だからとか、おじさんとかおばさんとか、男とか女とか、大した意味のないラベルをつけて納得できたつもりになれる、という事で。
それを踏まえると、自分の中のもやもやを何かに分類される事で理解したつもりになり、その方向に自分を当てはめる事で安心する。とそんな事が起きているのかもしれませんね。いまはSNSにすぐ“掲載”されますから、“急増”も速いですしね。
そんな事を踏まえて国語が苦手な自分に戻るのですが、それによって得られた『「どうせ分かってもらえない」とか「自分は他人と感覚が違う」とか「人によって感覚にズレが合って、言葉の裏にある感覚は何だろう」とか』と言った感覚が、「こんな分類されても人格を網羅する事は出来ないよね」「そんな事で測られても迷惑だな」そんな感覚になるので、病名や分類にたいした意味はないよねと。そんな風に感じるので、自分は図太く生きて行けているのかもしれません。
そうすると、国語が出来ない自分やそんな自分の背景にも、意味も見いだせるものだと思います。
悩んでいる人がいるのに!と不快に思われた方もいるかもしれませんが、私も大いに悩んではいます。そういう記事やSNSを見ていて、自分もそうだと思う事もよくあります。そこで一瞬、悩みが解決された様な気になる一方で、そこに書いてある症状が自分に現れる感覚があるんです。これは私だけの感覚かもしれませんが。私はそれを許容できないので、自分は違う、と思う様にしている、という内容です。
もし不快に思われる方がいましたらすみません。当事者を蔑ろにするものでも否定するつもりもありません。苦しんでいる方がたくさんいる事も理解しています。
あくまで個人的な意見と感想ですが、自分を追い詰めてはいませんか?と、無警戒なSNSの利用に警鐘を鳴らしたい気持ちがあるのは事実です。