はつおい歯科室 べいちょうです。
「運動神経」という言葉がありますよね。 実際には「運動神経」という名前の神経器官があるわけではありませんが、日常的に「運動神経が良い」とか「運動神経が悪い」なんて言い方で使われます。
ちなみに私は、自称「運動神経が良い」です。 しかし、父は小学生の私に「お前には運動神経が無いから諦めろ」と宣告していました。運動が好きな少年に対して、なかなか酷い仕打ちですよね。
運動神経の正体と、日常の「レッテル貼り」
実際には、「運動神経」には良いも悪いもないのだそうです。 「勉強ができる」「勉強ができない」と同じような事で、得意・不得意の傾向や、これまでの学習量、アウトプット能力などに左右されるだけです。
例えば、アインシュタインは浜松市の名産品を知りません。私たちは、そんな彼を捕まえて「あいつはダメだ」と言い切ったりします。 極端すぎる例でしょうか? 「あいつは礼儀がなってない」「最近の若い人は」「ジェネギャ(ジェネレーションギャップ)」など、もっとたくさんの「あいつはダメだ」の言い方があるかと思いますが、私たちは日常的に、偏見でレッテルを貼って物事を整理してしまいがちです。
自分は見えない「認知の歪み」
「間違いは、間違える回数だけ間違った学習をする」と私は思っています。
例えば食事の時、箸を舐めたり肘をついたり、くちゃくちゃ音を出したり。早い段階で誰かに教えてもらって、それを改善する取り組みが出来ていれば、そんな大人はいないかと思います。
以前、牛丼屋さんでくちゃくちゃと大きい音が聞こえてきて、また別のお客さんが入ってきても、その人もくちゃくちゃと音を立てていました。周りの人がちらちらと見る、それと同じように、音を出しているお互い同士もちらちら見ていました。 自分の癖には気が付かないけれど、他人の「くちゃ」は気になって仕方がない様子でした。自分がそうであるという認知が欠けているせいで、学習が阻害されているのだと思います。
父の呪いと、ゴーレム効果
「お前には運動神経が無いから諦めろ」という私の父親の話に戻しましょう。 私は運動が好きなのに、それを全否定するかのような認知を父から与えられました。私は当時からひねくれ者でしたから、「自分が出来なかったからって決めつけてかかってきた。哀れな人だ」と思っていました。
一方で、それでも父親は父親ですから、今でもその情景が浮かぶくらい鮮明に、その宣告シーンを覚えています。「脳裏に刻まれる」というやつでしょうか。
ピグマリオン効果というのをご存じでしょうか。何の根拠もなくとも「あの子は出来る子だ」と期待をかけられると、何故かその子は成績が伸びるのだそうです。期待が才能を伸ばす様です。 反対に、ゴーレム効果というものがあります。「あの子は出来ない」というネガティブなラベリング(レッテル貼り)をされると、パフォーマンスが低下するそうです。負の期待値が、成長の機会を奪っていくのです。
レッテルを背負って力に変えるか、膝をつくか
私は父からの呪いで“運動神経が無い”ゴーレムになる事も出来たわけですが、それでも自称「運動神経が良い」人に成れたのはなぜでしょう。
実際に運動神経が良いか悪いかは、関係ないと思います。 失敗した時に、その言葉を真に受けて「私には運動神経が無いのだ」と打ちひしがれる事も出来たはずです。そして、「父のせいで私はゴーレムになった」と言い訳にする事も出来た訳です。
結局は、どんな経験をして、それをどう受け止めるかが人生を左右するのだと思います。経験をただの経験として受け止める力も必要かもしれません。
こんな事を言っている私も、10代の後半は、本当に何にもならない時間をただ過ごしていました。人によってはそれを引きずって、人生を終えるかもしれません。 でも私は、その経験があるからこそ、人より踏ん張りが効くと思っています。もうあの時の自分にはなりたくないと思うのです。
人それぞれに、そういう事柄、思い出、出来事がたくさんあると思います。 それを背負って力に変えるか、それで足をとられて膝をつくかは、自分次第です。
世の中には色々な名前がついていて、ナントカ効果とかナントカバイアスとか、病名や分類もたくさんあります。自分をそれに当てはめて落ち込んでいく事も出来たり、逆にそれで一安心する事もあったりします。 でも、それは本質ではないと思います。
「運動神経」という存在しないレッテルに振り回されると、自分自身をゴーレムにしてしまうかもしれない。というお話でした。


