はつおい歯科室 べいちょうです。
「人は習慣の生き物である」とよく言われます。 ですが、習慣で生きているのは人間だけではないはずです。
例えば犬は、非常に習慣を大切にします。 ご飯のタイミング、散歩のコースなど、とにかくルーティンを好みます。
お散歩をしているワンちゃんが、飼い主さんをグイグイ引っ張り続けているシーン。 よく見かけないでしょうか。
傍から見ると「元気だねぇ」なんて微笑ましく思いますが、実は違います。 彼らにとっての散歩とは、**「飼い主を必死に引っ張ること」**自体がルーティン化しているのです。
別にそこに行きたいとか、明確な目的があるわけではありません。 幼い頃にリードを引っ張った時、「元気だねぇ」「かわいいねぇ」と愛する飼い主さんに褒めてもらえた。 その記憶が習慣に進化し、いつしか**「飼い主を引っ張るのが僕の仕事(宿命)!」**というレベルにまで昇華してしまった姿があの行動なのです。
……と、少し変わった視点で書きましたが、人間にも同じような事はありませんか?
親や友人、上司や部下から言われたちょっとした一言。 それがきっかけで始まった「やるようになった」あるいは「やらなくなった」習慣。
私たちはつい、「あの人に言われて…」と他人のせいにしがちです。 まるでその人にコントロールされているかのように振舞いますが、突き詰めれば**『「他人に言われて」、「する(しない)」を「自分が選択した」』**という事実は否定できません。
そこで、最初の「人は習慣の生き物」という言葉に戻りますが、私たちはそれほど「習慣」に忠実に生きているでしょうか。 都合に合わせて「習慣」という言葉を言い訳に使ってはいないでしょうか。
例えば、私はスマホをどこにでも持ち歩く依存症で、ベッドの中でもずっといじっていたりします。
- 『これは現代人の「習慣」だから仕方ない』とも言えるし、
- 『ただ欲に負けて「依存」しているだけ』とも言えます。
「習慣」と「依存」。 これはまた少し違う話ですが
靴を履くときは左から、階段を上がる時は右足から。 これは無意識の「動作」に近い習慣です。
一方で、ゴミが落ちているのを見た時、 「すぐに拾う」のか、「見て見ぬふりをする」のか。 何か失敗をした時、 「すぐに改善行動に移る」のか、「言い訳(自己弁明)を探し始める」のか。
これらは、その人の生き方を決定づける重要な「習慣」です。
私の友人に、とても素敵な美男美女のカップルがいます。 二人とも実家は裕福で、家にプールがあるような、絵に描いたようなお金持ちです。
しかし、彼らと食事をした時に、私は必ずガッカリしてしまう事があります。
彼らは、お茶碗にお米がひっついて、米粒がバラバラに残った状態で食事を終えるのです。 そして、それを全く気にも留めない。
とてもかっこよく、とてもきれいな二人。 でも、その茶碗を見るたびに、**「ああ、私の方が恵まれているのかもしれない」**と、そんな気がしてしまうのです。
もちろん、それもただの「習慣」に過ぎないのかもしれません。 むしろ現代では、それを気にしない事を良しとする宗派(?)もいるようです。米粒をまとめる事を「はしたない」 外食をして店員さんに「ごちそうさまでした」と言う事を「恥ずかしい」と表現する若者もいると聞きますから、「常識」とは時代によって変わる偏見でしかないのかもしれません。
しかし、習慣は私たちを支配するものではありません。 流される事も可能だし、自分の意志で覆すことも可能です。
子どもの頃からの悪い習慣が、眉目秀麗な容姿をも上回る「低評価」に繋がってしまう事もあり得る一方で、 今、この瞬間から始めた「良い習慣」が、人生を変えることもあり得ます。
ちょっとした事から、「良い」と思える行動を今から始めてみたいですね。 それが数日後か数年後か、よい事を起こすかもしれない。もしかしたら子や孫へ引き継がれる「良い伝統」に変わるかもしれません。
また逆も然り…。
何にせよ、まずは気づきから、かもしれませんね。


