たいていの問題の解決策は、一番簡単な方法である。私はそう思っています。 しかし簡単なために見逃してしまって、「重大なナニカが生じたのではないか」と難しく考えてしまうことがあります。 考えて行動が出来ないと、何故かその一番簡単な解決策に気が付けない傾向がある気がします。考えなしに、ただの手順として機械的に動くことの方が好ましいのかもしれません。
目次
素晴らしいミスの報告
先日、従業員が一人、ミスを報告してくれました。
大きなミスではありましたが、私は「よろしい事である」と感じました。変な表現ですが。 それはたぶん、一切の言い訳をせずに事実だけを伝えてくれて、次の行動の許可を貰いに来てくれたからです。
「失敗をしました。〇〇という内容です。◇◇をするのでよろしいでしょうか。」
そんな内容です。私は「△△が望ましいから、お願いします。」と答えたのみでした。 失敗というものは、基本的に人が何か引き起こすものです。そこに大した理由などはなくて、「忙しい」とか「慌てて」といった事は、後付けで説明されるのだと思っています。
理由を問う尋問と、磨かなかったスキル
私にも経験があります。私の父は、私が失敗をすると尋問をして暴力をふるう人でした。 失敗すると「どうしてだ!」と怒鳴られて、何か理由をひねり出しては殴られる機会が度々ありました。
あの時に、言い訳のスキルを磨かなかった自分は素晴らしいと思います。
“そういう人(言い訳ばかりする人)”は、残念ながら誰かから何かを指導を受ける事が出来ません。「あの人がこう言った」とか「あの人がやっていた」とか。 指導する側ががっかりして何も言う気が起きなくなった事が、その人にとっては「その場を逃げ切れた」という意味で成功なのでしょう。人に迷惑がかかったとか、自分の信頼を失っているとか、そんな事より責任回避が重要なのだと思います。
一方で、何も言い訳をせずに事実を伝えてくれる事には、大変なありがたさを感じます。
「間違えました。こういう対応をしました。こうしたいのですが。」 それを言って貰えると、内容は確かに失敗した報告なのですが、私の中での評価は上がります。
責任から逃げる人、取りに行く人
何がこんなにも評価を分けるのでしょう。 責任を取りに行くか、逃げに行くかで、評価は大きく変わります。
その態度が不貞腐れていたり、「ああ言えばこう言う」であったり。言葉のニュアンスはとても微妙で、同じ文言でも表情や語調で全く違って伝わりますしね。
色々な問題が起こって、その原因は大体が人が起こしている何らかのエラーです。 責任を回避する人は、同じ様な事を繰り返しつつ、基本的には同僚や環境のせいにして完了したつもりになって、でも本質は自分にあるので少しずつ病んでいきます。 一方で、責任を取りに行く人も色々な失敗を起こすでしょうが、“なぜだか”待遇や境遇は良い方向へ変わっていきます。
ちょっとした言葉の使い方が、その人の本質を露(あらわ)にします。場合によっては「あの人にはもう教えたくない」となっても不思議ではないですよね。反対に、失敗しても逃げずに報告をして、次の手を考えて行動できる人には、新しい仕事と良い環境がついてきます。
失敗した時に考えるべきこと
選択できるのは自分だけですよね。
失敗をした時。理由を探さないという選択も出来ますが、それはちょっとズレたところで。 「自分が出来たことは何だろうか」と考えると良いのかもしれません。
それか、理由を考え過ぎなのかもしれません。「自分のせいではない!」という結論ありきで考え始める思考には、害しかないかもです。かと言って、「すべて自分のせいだ!」と思い込むのとも違うのです。
「自分には、これが出来たのではないだろうか」 そんな風に、正常な考えを客観的に導き出せる事が、一番大切なのかもしれません。
はつおい歯科室 べいちょうです。
たいていの問題の解決策は、一番簡単な方法である。私はそう思っています。 しかし簡単なために見逃してしまって、「重大なナニカが生じたのではないか」と難しく考えてしまうことがあります。 考えて行動が出来ないと、何故かその一番簡単な解決策に気が付けない傾向がある気がします。考えなしに、ただの手順として機械的に動くことの方が好ましいのかもしれません。
素晴らしいミスの報告
先日、従業員が一人、ミスを報告してくれました。
大きなミスではありましたが、私は「よろしい事である」と感じました。変な表現ですが。 それはたぶん、一切の言い訳をせずに事実だけを伝えてくれて、次の行動の許可を貰いに来てくれたからです。
「失敗をしました。〇〇という内容です。◇◇をするのでよろしいでしょうか。」
そんな内容です。私は「△△が望ましいから、お願いします。」と答えたのみでした。 失敗というものは、基本的に人が何か引き起こすものです。そこに大した理由などはなくて、「忙しい」とか「慌てて」といった事は、後付けで説明されるのだと思っています。
理由を問う尋問と、磨かなかったスキル
私にも経験があります。私の父は、私が失敗をすると尋問をして暴力をふるう人でした。 失敗すると「どうしてだ!」と怒鳴られて、何か理由をひねり出しては殴られる機会が度々ありました。
あの時に、言い訳のスキルを磨かなかった自分は素晴らしいと思います。
“そういう人”は、残念ながら誰かから何かを指導を受ける事が出来ません。「あの人がこう言った」とか「あの人がやっていた」とか。 指導する側ががっかりして何も言う気が起きなくなった事が、その人にとっては「その場を逃げ切れた」という意味で成功なのでしょう。人に迷惑がかかったとか、自分の信頼を失っているとか、そんな事より責任回避が重要なのだと思います。
一方で、何も言い訳をせずに事実を伝えてくれる事には、大変なありがたさを感じます。
「間違えました。こういう対応をしました。こうしたいのですが。」 それを言って貰えると、内容は確かに失敗した報告なのですが、私の中での評価は上がります。
責任から逃げる人、責任を取りに行く人
何がこんなにも評価を分けるのでしょう。 責任を取りに行くか、逃げに行くかで、評価は大きく変わります。
その態度が不貞腐れていたり、「ああ言えばこう言う」であったり。言葉のニュアンスはとても微妙で、同じ文言でも表情や語調で全く違って伝わりますしね。
色々な問題が起こって、その原因は大体が人が起こしている何らかのエラーです。 責任を回避する人は、同じ様な事を繰り返しつつ、基本的には同僚や環境のせいにして完了したつもりになって、でも本質は自分にあるので少しずつ病んでいきます。 一方で、責任を取りに行く人も色々な失敗を起こすでしょうが、“なぜだか”待遇や境遇は良い方向へ変わっていきます。
ちょっとした言葉の使い方が、その人の本質を露(あらわ)にします。場合によっては「あの人にはもう教えたくない」となっても不思議ではないですよね。反対に、失敗しても逃げずに報告をして、次の手を考えて行動できる人には、新しい仕事と良い環境がついてきます。
失敗した時に考えるべきこと
選択できるのは自分だけですよね。
失敗をした時。理由を探さないという選択も出来ますが、それはちょっとズレたところで。 「自分が出来たことは何だろうか」と考えると良いのかもしれません。
それか、理由を考え過ぎなのかもしれません。「自分のせいではない!」という結論ありきで考え始める思考には、害しかないかもです。かと言って、「すべて自分のせいだ!」と思い込むのとも違うのです。
「自分には、これが出来たのではないだろうか」 そんな風に、正常な考えを客観的に導き出せる事が、一番大切なのかもしれません。


