会報誌に掲載していただいた三線のインパクトと、言い訳で削れていく「心の器」の話

会報誌に掲載していただいた三線のインパクトと、言い訳で削れていく「心の器」の話

はつおい歯科室 べいちょうです。

先日、静岡県歯科医師会の会報誌に私の文章が掲載されました。 「リレー放談」という企画で、所属している先生方がリレー形式で自由にエッセイを綴るというものです。

私はあまり趣味というものが無いもので、庭いじりと歌と三線くらいしか書ける事がありません。 そこで、和服姿で三線(さんしん)を抱えた写真を載せて、文章を書かせていただきました。

💡 写真のインパクトと「どこにでもいるべいちょう」

写真のインパクトというのは凄まじいものですね。 私は長々と文章を書いて、合唱の事や息子と行ったスキーの事なども盛り込んだのですが、たくさんの先生方から「三線やるの!」「三味線か!」と声をかけていただき、嬉しく思いつつも「合唱もやってるんだけどなぁ…」なんて内心思ったりするわけです(笑)。

人のイメージって不思議ですよね。およそ実態とかけ離れていても、一度何かの拍子に「印象」として残ったものは、どうしても消すことが難しいようです。

ちなみに、私は歯科医師会で「どこにでもいるべいちょう」と呼ばれています(笑)。 良い意味か悪い意味か全く分かりません。人によってどちらの意味でも使われている気がします。私は集まりの場であまり喋らないので、「何だか居るな(でも喋らないな)」という状態が「どこにでも居る」という表現にとどまり、他に印象が無い事の裏返しかもしれません。

💡 喋らないけれど、実は面倒くさい性格

私は人の話をニコニコ聞いている事が多く、あまり意見や意思のない人と受け取られやすい傾向があると感じています。 でも実際は、このブログを延々と書き続けられるくらいには、自分の中に強い意見と意思を持っています。

私が何かのグループに属する際、毎回「こいつ、あれ?(ただのニコニコしてる人じゃないぞ?)」と思われる通過儀礼のような時期があります。 しかも私は頑固で、筋が通らない事が嫌いなため、なかなか意見を曲げません。「これは決定事項だ」と言われれば素直に了解しますが、無為に意見を求められると、自分が正しいと思い込んで徹底的に議論に臨んでしまいます。

また一方で、別の人の意見が論理的で優れていると思えば、180度でもパッと転換できます。「この人は頭が良い」「考え抜いて発言している」と思えば、自分の論理を脇に置いてでも賛成できるのです。 自分でも説明のつかない正義感というか、使命感というか……「私には完全に理解できないけれど、きっとこの人が言うなら正しいのだろう」と信じられることもあります。

たぶん、変な人なんです。

💡 息子に見る自分の影と、現実を受け止める「器」

そう言えば、そんな「変な自分」の姿を、息子の中にも見ることがあります。

ルールがあって、自分はそれを守っているのに、破る人がいる。それを見ると嫌な気持ちになり、自分を抑えられなくなって、頭がおかしくなりそうな気持ちになる。考え始めると色々な言葉が頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えて「わ゛ーーーー!」と叫びだしたくなるような感覚。

私の中にもあるその葛藤が彼の中にもはっきりと見えて、「頑張れ」と心の中でエールを送るわけです。

一方で、そこで「人のせい」にしてしまう人は大変だろうな、とも思います。 言い訳や口答え、「ああ言えばこう言う」を繰り返して、「自分は正しい!」「自分のせいじゃない!」と思い込むことが当たり前になっている人がいます。

そういう人は、現実を受け止める「器」が壊れてしまっていて、現実を直視する機能が停止しているのだと思います。周囲から見れば機能不全を起こしていても、自分ではそれを認識できません。 恐ろしい状態です。外部からの影響(他人の忠告など)では絶対に回復不可能です。

自分で少しずつ少しずつ、器を修復しながら、大きくしながら、厚みを持たせながら、自ら育っていくしかないのです。しかし、言い訳や口答えを繰り返すと、その器にはどんどんヒビが入り、ヘリが欠け落ちていってしまいます。

💡 印象は自分で作り出している

何の話だか収拾がつかなくなってきましたが。

「印象」というのは他人に持たれるものではありますが、最終的にそれを作り出しているのは自分自身であることは確かです。

「自分は悪くない(被害妄想)」に逃げ込むのは最短最速の解決法ですが、それは決して良い解決法ではありません。 人によって受け取り方は本当に様々だなと、日々感じる今日この頃でした。

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